Salsa Dance Studio CHEVERE

KIYOMI WAVE

History of CHEVERE

Roots of Salsa

What's Salsa
Roots of Salsa
CUBA
PUERTO RICO
人類の誕生地、音楽の発祥地、アフリカ

ピグミーの時代から原始の時代から、人間は手を叩き、足踏みやジャンプをし、音を鳴らしてリズムを作り音楽で感情を表現してコミュニケーションをはかってきました。狩りの成功を讃える、収穫を喜ぶ、新しい命の誕生を祝福する、 あらゆる恵みを神に感謝する、人の死を悲しむなど、全ての事柄に対して音楽を使用したのです。そして、全ての人々はみんな全員がミュージシャンなのです。 その中で一番の楽器となったのが心の鼓動の様なリズムを奏で人々を盛り上げた『ドラム』でした。 ラテン音楽のルーツの発祥は『MOTHER LAND AFRICA』西アフリカと言われています。ヨルバ、コンゴ、ホーミアンピープルがそれです。

(昔話)
昔、ババトゥンデという青年がヨルバにやってきました。 彼は父と兄のドラムを聞いて育ちました。彼は素晴らしいドラマーになる才能に恵まれているといわれ、父は彼にドラムの作り方を教え、伯父はドラムの叩き方 を、そして祖父は神の存在とその信仰を教えました。 彼はその教えをもって、ヨルバから広くあらゆる地域に旅をしながらその信仰とドラムのサウンド、リズムを広げていきました。そして、王の為に音楽を奏で続けたのでした。 こうしてヨルバが西アフリカの音楽ベースを形成していったのでした。

スペイン

時を同じくして、500年以上前のスペイン。 この地ではギターをベースにした音楽が誕生していました。 ジプシー達が奏でるギターの音色とその語りがどんどんと浸透していき、そんな中で1人の才能に恵まれたギターリストが誕生。彼は王朝のもとで奏でる様にもなりました。 こうして定着していったジプシーの音楽がのちにフラメンコとなり、現在にまで受け継がれていくのでした。
この頃スペイン人のユダヤ人虐殺などのひどい歴史も残っており、音楽の語りの中にはその様子を歌ったものも残っています。 危険な状況から身を守ろうとしたユダヤ人ギターリスト達は、その方法としてコロンブスの航海に同行することを希望しました。 航海には悪天候、海賊、海の悪魔とどんな事が待っているかわからないという不安に満ちていた状況があったので、音楽で癒し不安を和らげることが望まれたのです。 こうしてミュージシャン達は船に乗り込む事で虐殺から逃れたそうです。

コロンブスの新大陸発見とスペイン人のキューバ上陸

1492年、クリストファー・コロンブスは新大陸を発見する航海に出、カリブ海に辿り着きその後多くのヨーロッパ人がカリブの島々に辿り着き植民地として支配していきました。 キューバに足を踏み入れたスペイン人たちは先住民達を支配、征服し過酷な労働を強制して開拓に力を注ぎました。暫くは先住民達は逆らえず奴隷のように働き続けましたが反抗すると虐殺され、絶えられなく自殺をする者も多く、疫病も発生しやがて死に絶えてしまったのでした。 働く人間が必要なスペイン人は本国に奴隷が必要と要請。アフリカから多くの黒人を奴隷として受け入れていったのです。
多くは西〜中央アフリカからの黒人でその中に昔話のババトゥンデの子孫にあたるイジワもいたといいます。無理矢理奴隷船に乗せられた黒人の多くは、悪環境のせいで航海の最初にすでに死んでしまったり、奴隷になるのを恐れ、航海を恐れ自殺したといわれています。 労働力を確保するためスペイン人は奴隷に船にあった箱やボトルでドラムを叩かせ、ヨルバの安全に捧げる祈りのドラムで黒人達を癒し、キューバまで運んだそうです。 こうしてキューバに辿り着いた黒人は過酷な労働を課せられて新しい島での生活を余儀無くされました。そして彼等は故郷アフリカに思いを馳せながらヨルバの宗教を強く信仰し、白人に隠れて密教としてドラムの音と共に密かに祈りを捧げ続けました。 ヨルバの信仰には火の神様、月の神様、海の神様、風の神様、と一つ一つあり、それぞれに捧げるドラムの叩き方、ダンスが存在します。ヨルバ族系の『サンテリア』が一番有名で、オリーシャというたくさんの精霊、神様がいて信仰しています。 この信仰は今でも受け継がれています。
どんどんと連れてこられる黒人とスペイン人との混血も進んで、ムラート(ムラータ)と呼ばれる人たちもあらわれていきました。 スペインから同時に連れて来られていた労働者階級の人間は農民として働かされ、その住居は丘の上に追いやられた暮らしをしていました。 彼等はグアヒロと呼ばれ、彼等の音楽をグアヒラミュージックと呼ばれました。 それは、スペインから持ってきたギターと即興のライム、詩です。次世代は親からその音楽を受け継ぎ集まれば日々の生活をライムにして歌い続けました。グアヒラの人々は闘牛、闘鶏、曲芸なども得意とし、彼らの文化として守っています。 そしてその文化は今にも受け継がれています。
やがて、グアヒラの人々が職を求めて山を下り、港にやってきました。そして黒人達と交流を持ちはじめ、汗を共に流して仕事をするうちに打ち解けてお互いの苦悩を癒し合いながら文化の交流に発展していきます。 こうしてアフリカをベースにした音楽とスペインをベースにした音楽が混ざりあい、キューバ音楽としての新しい形がうまれました。これが『キューバルンバ』です。
The music is king of medicine !!!!

音楽の宝庫キューバ
CUBA is an Island of MUSIC TRESURE

チャングイ
20世紀初頭スペインとアフリカの楽器、リズム、メロディーが混じり合って出来た最初の音楽、これがマンボやチャチャチャの祖父ともいわれています。 こうしてカリブでは独自の文化が形成されていくのでした。
カーニバルやフェスティバルはもう一つの交流を深める場でした。当時は『DAY OF THE KING』ともいわれ、王様をあがめたお祭りだったようで、カーニバルの元祖だそうです。 白人の支配下にあった黒人達は自由に演奏することを禁じられていましたが、このカーニバル、フェスティバルの日だけは通りに出て自由に音楽を楽しみ自らの神を信仰することが許されたのでした。 こうして、通りでは音楽がいろんな影響を受けどんどんと活発に変化していきました。
キューバではスペインの植民地から独立を願う空気が高まり、反乱が起こりはじめます。 そこで、トレスギターを弾きながらその悲しいキューバの現状をうたい嘆いたという歴史も残ってます。 あるアメリカのピアニストがキューバにツアーにやってきてその地の音楽にふれ、いたく感動、すぐに自分の音楽に取り入れました。 アメリカに帰国後、その新しい試みの音楽を演奏すると大反響。とくにボストンで受けたそうです。
1898年、アメリカは戦争の時代を迎えます。それによって多くのアメリカ人がキューバ音楽にふれることにもなりました。 キューバは戦争のせいで、餓えと貧困と病いという辛い経験を余儀無くされ、苦しい時代を経験します。 そんな苦しい時代を乗り切るためにミュージシャンは音楽を作り続けます。 18世紀ヨーロッパの舞踊であった『コントラダンサ』がキューバで黒人のアフリカリズムと混じり合った事でより黒人リズムを吸収してできた『ダンサ』が誕生。 それから進化した『ハバネラ』も生まれました。
新しい音楽の形体がヨーロッパ、スペインのバイオリンなど弦楽器とアフリカンドラムを使ってより踊りやすく、親しみやすくしたものが『ダンソン』でした。 これはトロピカルラグタイムとも言われました。
苦しい時代を経て独立したキューバは実質的にはアメリカの支配下としての道を歩むことになります。 そして、アメリカからの観光客がぞくぞくと流れてくるようになります。

1905年、トーマス・エディソンが電話を発明したことで文明が大きく進歩します。そしてレコーディング技術も開発されキューバで初めてキューバ音楽が録音されました。 そのアフリカとスペインの音楽がしっかりミックスされたキューバポピュラー音楽として出来たのが『ソン(SON)』です。 キューバ人達はストリートからその個性ある音楽をどんどん世に送りだし、マンボ、チャチャチャ、ルンバと全てがその創造の産物として広がっていきました。

(昔話)
その昔キューバの村、マタンサスにいた1人の少年が11歳でトレスギターを習いはじめました。 貧しく兄弟も多かった彼は母を手伝って農作業をしていましたが、同時に音楽にもどんどんはまっていったのです。 或日、オーケストラを持つ人間が彼のトレスを気に入り、演奏の依頼をするが母は農作業で家計を助けないと・・・。と、乗り気でなかったそうです。 でもそのバンドリーダーは、「お母さん大丈夫、夜中演奏して朝方には帰るから仕事はできますよ」。そうして少年を連れてライブへ。 その夜ライブが終わってリーダーは彼にギャラとして2ドル手渡しました。
少年は家に帰り母に、「お母さん、2ドルもらったよ!」というと、母は「そうして音楽でお金もうけするのよ!」といったそうで、それが少年のミュージシャン生活の始まりでした。 その少年がイザック・オビエロで、彼はのちにオーケストラを構成。マタンサス セクストとして1926年ハバナにやってきてそのキャリアの華を咲かせたということです。

ルンバ

ルンバは今現在アメリカを中心に呼ばれているものとキューバのそれとでは全く違っています。 アメリカでルンバと呼ばれている音楽のもとは1920年代にハバナで流行っていた『ソン』です。 キューバのルンバはアフリカ系の音楽とダンスのことをさします。たいていが太鼓、つまりドラムのリズムと歌とで構成されていて複雑なリズムが巧みに含まれています。 ルンバで有名なのはベレンという町でうまいルンバダンサーがたくさんいるそうです。
踊りひとつで女性がHEN(めんどり)で男性がROOSTERになり踊り合うものがあります。 男性がその積極的なアプローチで女性に迫り、女性はそれをうまくかわしながら舞っていきます。 ルンバの中にはワワンコー、ヤンブー、コロンビアといった種類のダンスがあって、コロンビアは男性だけのダンスで男性はその威厳とインテリさを際立たせて荒っぽいところも加味して独特に踊ります。

アメリカのラテンブーム

アメリカでは1913年タンゴブームになります。タンゴはアルゼンチンをルーツにヨーロッパへ、そしてアメリカに入ったもので、ハバネラというキューバのリズムがベースの中に入っているともいわれています。 タンゴは当時、お茶を頂く時のダンスとして『ティ ダンス』とも呼ばれていたそうで、最初は賛否両論。中にはかなり批判する動きもありましたが、それが逆に大ブレイクにつながったそうです。
1920年代、チャップリンもタンゴを踊っていました。 時を同じくしてハバナでは「ソン」が大ヒットしていました。 キューバ人アーティスト ドン・アスピアスは楽団を編成しアメリカに渡ります。 そしてニューヨークを皮切りに『南京豆売り』を大ヒットさせ、世界的なブレイクへ導きました。この時「ソン」というのはアメリカ人には分りにくいということで『ルンバ』という名で呼ばれるようになってルンバが浸透していったそうで、キューバのそれとはまったくちがった音楽となります。
1915年、エキゼビア・クガットもまた家族とともにキューバを離れアメリカへ渡りました。当初クラシックアーティストだった彼ですが、その方面ではあまり高い評価を得ることができませんでした。 しかし、或日あのチャーリー・チャップリンからハリウッドの屋敷に招かれてそこで作曲がスタート、チャンスを与えられたのです。そうして出来上がったものが有名な映画『ライムライト』の曲で、彼自身も名バイオリンを奏でているそうです。 こうしてハリウッドのショービジネス界にも華やかにラテンブームがやってきたのでした。
また、キューバの裏通りで演奏しているミュージシャンに影響を受けたアメリカのミュージシャンがその独特なリズムを自分の音楽に積極的に取り入れ、ラグタイムジャズの中に新しい音楽形態を作っていきました。 『セントルイスジャズ』などはその代表曲で、このような動きを『ラテンティンジ』と呼んだそうです。
ルイ・アームストロングもキューバサウンドを積極的に取り入れたミュージシャンの1人です。 この様にしてアメリカのミュージシャンがどんどんアメリカに行きその魅力の虜となり、またラジオなどの発達も手伝ってキューバ音楽が広く紹介されていきました。
アメリカで数多くツアーを行ったグループに女性だけのオーケストラ『アナカオナ』がいます。 1930年ころキューバでデモなどで荒れている状況があり、父は娘達に約1ヶ月の外出禁止を言い渡しました。 彼女達はずっと自宅で音楽をする日々を送りそれがきっかけとなってミュージシャンになったそうです。 そして1932年グループを結成。10人メンバーでツアーなど活発に音楽活動をしました。 勿論、女性が音楽をするということ、彼や夫、子供との間の理解の問題などと様々あったそうですが乗り越えながら活躍しました。

マンボとチャチャチャ誕生

ストリートで起こるいろんなハプニングに触発され、多くの人間がミュージシャンとしてのキャリアをスタートさせますが、“オレンティス・ロペス”もそのひとりでダンソン、そして『マンボ』を作ったとも言われています。 ある日彼が家でリハーサルをしていたらそのもれる音を聞いて近所に人々が集まって来て楽しく踊り始めたそうです。 そして1938〜39年ごろ、彼はArcan~es orchestraというオーケストラを結成しました。これが『マンボ』の始まりといいます。 こうして、ペレス・プラード、ベニー・モレーなど数々のアーティストによってマンボブームにどんどんと火がついていきます。
キューバはアメリカからの大観光地として華やかに盛り上がって栄華な時代を迎えます。 あの有名なアーネスト・ヘミングウェイもキューバをこよなく愛した1人でした。 1951年、エンリケ・ホリンがダンソンを進化させた新しい音楽とダンスを打ち出しました。それが『チャチャチャ』です。マンボよりも簡単で速すぎず、遅すぎずというテンポが受けて盛り上がり、老若男女、人種差別なくみなが平等に踊れるダンスとして浸透していきました。 キューバはショービジネスとトロピカルパラダイスとして多くの観光客を招き、同時にナットキング・コールをはじめ一流ミュージシャンがライブでも訪れ、最高のバケーション地として人気をひとりじめます。 加えて、マフィアも同様にカジノ、ナイトライフ、女性、ドラッグとパワーをフルに発揮してし仕切り、絶好調なビジネスを展開していました。 そうする中、人種差別、偏見、貧富の差と社会はどんどん不必要なものも生み出し反乱、革命へと道が繋がって行きました。
マイアミはキューバに一番近いアメリカからの玄関。このマイアミで新しい生活を始めるキューバ人移民が多くいます。『リトルハバナ』というキューバ人街があり、『カエ オチョ』(8丁目)という盛大なストリートカーニバルが毎年3月に行われ世界中からラテンファン、カーニバルファンが訪れます。 あの“オルケスタ デ ラ ルス”も92年ごろ出演しています。
一方ニューヨークではキューバからの移民人口の増加に平行してジャズの世界とラテンが勢いよく融合しはじめます。 マチートや、そのいとこのマリオ・バウザは積極的にラテンオーケストラ活動をしていまいた。そんな中、ディジー・ガレスピーとも交流を深め、マリオがディジーにチャノ・ポソを紹介することになりました。 英語とスペイン語、片言の英語でなかなか言葉で交流ができなかったのですが、お互い音楽で交流をしました。チャノ・ポソは『君たちは言葉がはなせないのにどうして会話するの?』と聞かれた時に、『We speak African』と答えたという話しが残っています。 1915年ハバナでうまれたチャノ・ポソは才能に溢れたドラムプレーヤー、ルンベロコンポーザー、ダンサーでした。またストリートファイター、女好きでもありいつも通りで演奏し、女の人を追いかけ、ヤクザな日々を送っていました。が、彼の作曲する曲のヒット、才能の開花で彼は有名人になっていきます。 彼の曲がアメリカでヒットしているというのを知った彼はニューヨークに越します。 そして、ディジーなどの一流ミュージシャンと交流し始めました。
ある日、チャノはディジーにいつものブロークンイングリッシュで自分の作曲したナンバーを伝えました。 ディジーは彼のいうメロディ、リズムをどんどん書き留めました。このとき初めて、ベースが端切れよいリズム進行をとったといいます。それまでのベースは ボン ボン ボン ボン、、、、、といういわゆるべースラインだったけれどチャノはそれを、ティキティキティティ ティキティキティ、、、 と作曲。こうしてディジーのアレンジも加えて出来上がった曲があの有名な『マンテカ』です。
人気があがり活動範囲も広くなったディジーのオーケストラはツアーにも出ますが、当時人種差別の激しかったアメリカでは黒人はひどい差別を受けることになり、ツアーでもその体験を余儀なくされました。 ある南部でのツアーの時、チャノのベースが盗まれ、彼は新しいのを買う為にニューヨークに1人戻ります。そして、結局ツアーに戻らず、メンバーの帰りをN.Yで待つことにしました。
相変わらず女好きで暴れン坊だった彼はある夜、ヤクザに絡まれて大喧嘩となり相手をひどく殴り打ちのめしました。 翌日、またハーレムの酒場で女の子を追いかけ、お酒を飲み、ジュークボックスにお金を入れて音楽を楽しんでいた時、昨日のヤクザの仲間がやってきてチャノを襲撃。チャノは凶弾に倒れ帰らぬ人となりました。 その時ジュークボックスから流れていたのは彼が作った『マンテカ』だったそうです。
50年代のラテンシーンは一大ゴールデンタイム。ティト・プエンテ、 カル・ジェイダー、イラケレほか多くのミュージシャンがその才能を開花し、大活躍していました。 このブームは世界に広がり日本でも大ブレイクしています。
また、テレビを通じてのアプローチも大きな影響を与えています。

ディジー・アーネスト

彼はキューバの大金持ちの息子でしたが反乱でキューバを後にしマイアミへ両親と共に移住、一からのスタートとなりました。 マイアミで音楽をし、バンドを組み人気を高め、エキゼビア・クガットと交流を持って一大コンガブームを巻き起こします。 そして、その勢いはハリウッド〜全米へと飛び火していきます。さらに『I LOVE LUCEY SHOW』へと発展していくのです。
最初ルーシーの夫役をラテン人がやるというのは白人社会のアメリカでは無理と大反対意見があったのですが、実際に反対を押し切って始めてみると大反響を呼び、番組の成功に繋がったといいます。 こうして、ラテンのリズムはどんどんとアメリカの音楽に影響を与え、交わり、そして音楽文化として歴史をつづっていくことになりました。

キューバ革命とその後

1959年キューバ革命が起こり、チェ・ゲバラ、フィデル・カストロといった革命家が誕生します。そして、独裁者バティスタが追放されました。 アメリカの影響下から離れて行くことで、61年アメリカとキューバは国交を断絶し経済制裁を行いました。 これにより、ニューヨークにはどんどん入って来ていたキューバの音楽はマンボ、チャチャチャ、パチャンガを最後に全く入らなくなりました。 しかしその影響は多大なもので、その後の音楽にもどんどんと浸透して形をかえながら受け継がれていきます。
サム・クックがチャチャチャのリズムを取り入れ、またキューバのリズム『クラベ』がいろんな音楽の中に入っていく。 ロックンロール、ブルースなどほかにも影響を与えました。
the Diamonds、Jonny Otis、Elvis presry、Bo Diddleyほか昔の音楽に耳を傾けるとラテンのリズムの影響がうかがえる曲がたくさんあることに気がつくはずです。

アルシニオ・ロドリゲス

キューバ、マタンサス出身。16人兄弟で育ち9歳のときに馬に蹴られて失明。その後、兄の勧めでドラムを覚えミュージシャンとなる道が開かれました。 彼もまた例にもれずアメリカに移民しますが、人種差別のツラさをとことん経験させられます。しかし、ミュージシャンとしての才能は誰にもとめることができず、アルバム『ESTRELLAS』などヒット作をつくります。 彼は『FATHER OF SALSA』とも言われた人物で、彼のような人々がアフロキューバンといわれ、そして彼等がそのリズムを支え、次の世代に伝えていきました。1970年、他界。
このように、移民がきっかけとなってあらゆる人種が共存する中で、それぞれがこよなく愛しまた、哀愁を感じる母国のサウンド、リズム、メロディー、そしてハーモニーを混ぜあわせ、影響し、そして刺激しあって新たな音楽の形を誕生させてきました。 そして今なおそのくり返しで豊かでダイナミックで変化にとんだ素晴らしい音楽の歴史をつくっているのです。
1959年、キューバ革命によって61年アメリカがキューバとの国交を断絶し、経済制裁を施したことによってキューバからの音楽がアメリカに入らなくなり、キューバ人の移民もストップ。 それにかわってニューヨークでどんどんとその人口を増やしていったのがプエルトリコからの移民、プエルトリコ人でした。 プエルトリコもスペイン領土だったので、スペイン音楽の影響を受けまた、先住民の音楽、奴隷が入ってからの音楽のミックスで、プレナ、ボンバといったプエルトリコ独自の音楽を培ってきました。
南北戦争後、アメリカはプエルトリコを自治領とし、そこからプエルトリコ人のアメリカ移民(特にニューヨーク)がはじまりました。 N.Yに入った彼等もまた、独自の音楽をベースにして新しいラテン音楽を生み出して行きました。 それまでにあったキューバ音楽とジャズの融合、アフロキューバンリズムも当然影響を与えたとされます。人種のるつぼN.Yではすべてが影響と刺激になったのです。 それは特に黒人音楽と密接な関係があり、1960年代にはラテンロックの元祖ともいわれるブーガルーがヒットしました。 ブーガルーはブラックミュージックにラテンサウンドを加えてブレンドしたグルーブのある音楽で、ブラック色の方が強くあらわれています。 ラテンのジャムセッション、デスカルガで実験的な音楽融合も積極的に行われていったのもこの次期だそうでうす。 こうしてNYではありとあらゆる音楽が社会背景と文化交流も加味されて交差するかたわら、ユニークで真似のできないブレンドを可能にしてったのです。

ファニア オール スターズ

1964年、N.Y.弁護士であるジェリー・マスッチとジョニー・パチェコがレコード会社を設立。これがファニア・レコードの歴史のスタートとなります。 ここから次々と勢いのあるミュージシャンが飛び出してきます。彼等のライブはとてもエネルギッシュでそれまでにない活気とハイテンション、パッションを含んでいました。 そしてスパイスが効いたようなインパクトのあるテイストをもっていました。
彼等がライブを行うと、『もっとスパイスを効かせろ!もっとサルサ(美味しいソースのような味)をいれろ!』 と観客から熱い声援が浴びせられました。そこで、この美味しいラテン音楽のスパイスがしっかり効いた音楽に新しい名前がついたのです。 それが『SALSA』という音楽のスタートと誕生です。
このサルサのベースになっているのは、マンボ、チャチャチャのラテン音楽でそれが、N.Yのジャズ、ソウルといった音楽とミックスされて出来ています。 ファニアのミュージシャンには、ウイリー・コロン、ヘクター・ラボー、レイ・バレット、チャーリー&エディ・パルミエリ、イスマエル・ミランダ、ラリー・ハロー、ピート・エル・コンデ・ロドリゲス、アダルベルト・サンティアゴ、ヨモ・トロ、ホセ・チャオ・フェリシアノ、レイナルド・ホルヘ、ルイス・カーンほか。 1960年後半はまさにファニアのメンバーがラテン音楽をぐいぐいと引っ張り旋風を巻き起こしていった時代でした。 そしてその頂点は1971年、クラブ・チーターで行われるファニア・オール・スターズのライブで決定的なものとなります。そしてサルサムーブメントは一気に爆発。 N.Y音楽の歴史にその軌跡を残すことになります。
このライブは2枚のレコード(現在CD)におさめられていて人気アルバムの一つ、そしてまた映画『OUR LATIN THING』として世にはなたれています。
このようにしてファニア旋風は世界中に飛び火、ワールドツアーも行われ日本も例にもれずラテンブームとなり、日本ツアーも1972年に実現しています。 しかし、流行には必ず終わりがやってくる! 一大ブームを巻き起こしたファニアも時代の流れと共にその勢いが衰え、1970年後半にはブームから去り一つの時代に幕を下ろす事になってしまいます。

サルサの行方

1980年代はサルサの氷河期とも言われています。
アメリカに自由と夢、新しい生活を求めて移民してきたプエルトリコ人を中心としたラティーノ達は人種差別や偏見、貧困と戦いながらアメリカの社会に溶け込み、成功の為に必死に生活を続けていました。 そんな中、母国への思い、哀愁がラテン音楽の安定と継続に繋がっていたともいわれています。 やがて2世、3世の時代に入ると彼等はう生まれた時からアメリカで生活をしているわけですから、感覚はすっかりアメリカ人。 「親が聞いている音楽はダサイ!」と思い、受け付けない子供達もいて彼等はアメリカ文化にすっかり溶け込んでいきます。 中には英語だけを話し、スペイン語が全く話せない子供達も多くなったそうです。 このようなラテン離れがサルサを代表とするラテンミュージックの衰退を導いたと言えます。
しかし、一方でサルサを支えた偉大なミュージシャンも多く存在します。
例えば、ルベン・ブラデス、ウイリー・コロン、彼等は一緒に活動をしていましたが、やがてウイリーはソニーと、ルベンはエレクトラレコードと契約。 それぞれがそれぞれにフィールドを広げ、サルサの火を消さずに積極的なアプローチで知名度と実力を不動のものに確立していきました。 また、ファニアの独占時代は終わり多くのアーティストが多方面からデビューし、その活躍が活発に幅広くなっていったのもこの時期です。 この時期イングリッシュサルサというのも誕生します。
ラテンがダサイ!と敬遠する若い世代のヒスパニックに刺戟を与える手段かどうかはさだかではありませんが、少しずつサルサを英語で歌う。 また、アメリカのトップ40のようなヒット曲をサルサでカバーするといった思考でうまれたイングリッシュサルサが耳馴染みがある曲であることも手伝って受けいれられ、ヒットしていきました。 ティト・ニエベスなどはその代表アーティストとも言える人物で来日も果たしています。
サルサの人気は他のラテン諸国に多大なる影響を与え、各国から素晴らしいサルサミュージシャンが登場していきました。 ベネズエラのオスカー・デレオン、コロンビアのグルーポ・ニーチェ、ジョー・アローヨ。 プエルトリコのエル・グラン・コンボ、ソノラ・ポンセニャ、アンディ・モンタニェス、N.Yのティト・プエンテ、セリア・クルス。 その他、数多くのアーティストがそれぞれラテン音楽に変化と影響を与え時代を作っていったのです。
1980年半ば以降、サルサ・ロマンティカが誕生したのもこの時代。またラテンジャズがしっかりと根を這って定着していったのもこの時代。 サルサにとって衰退期であったと同時に安定期であったこと、変化の時代を迎えていた時代ともいえるでしょう。
ラティーノ2世、3世がラテンにかっこよさを見い出さず、難しい時代であったと同時に次世代へのプロローグでもあったのでしょう。
日本のオルケスタ・デ・ラ・ルスが初めてマディソン・スクエア・ガーデンで毎年行われるRMMサルサフェスティバルに登場したのが、1989年でした。 華やかなステージは毎年9月第一週目の週末に行われているもので、数多くのミュージシャンがリレーの様に次から次へとこなしていくのでした。 このステージから世界のデラルスへと成長し、そしてその人気は一気に急上昇したのです。 そして解散するまでの間にアセ・アワード、国連平和賞、グラミーノミネート、紅白出場、その他歴史を作ってきました。 その後メンバーチェンジもいろいろあったとはいえ、チームワークはバッチりで世界のデラスルが誕生したのでした。
90年代に入り、サルサは益々世界に広がっていきます。
97年に最初に行われたワールド・サルサ・コングレスがひとつのきっかけとなって世界のサルサファンのつながりができはじめてどんどんとネットワークをつくっていきました。 コングレスも世界各地で行われるようになり、サルサが国境を越えて多くに人に愛され、そしてダンスと音楽を通じて熱いコミュニケーションを図れるようになっているのです。 また、アメリカにおいてはヒスパニックの人口がどんどんと増え、2005年にはマイノリティーの人口の中で第一位になるといわれています。 従って彼らを対象にしたあらゆる産業発達、エンターテイメント業界でも活躍するラテンをバックグラウンドにした人間の活躍が目立つようになっていきました。 リッキー・マーティンはその最初。世界中を沸かせるブームになったのです。そして、サンタナ、ジェニフャー・ロペス、クリスティナ・アギレラ、シャキール、などなど。 ラテンポップスが一気に人気を獲。ブームも手伝ってラテンミュージックはもう一つの大きなジャンルとして君臨。2000年には初めてラテングラミー賞が行われたほどです。 この勢いはまだまだ拍車がかかり盛り上がっていく様子。そんな中でサルサも熱くヒートしていき、しっかりと根付いていくと思われます。

メレンゲ

80年代で頭角をあらわしたのが、メレンゲ。 プエルトリコ人同様、母国の音楽を愛しともに共存をはかったのが『メレンゲ』でドミニカ共和国の民俗音楽です。 N.Yに移民してきたドミニカ共和国の人々が生活のリズムとして温め続けました。
現在はラップ、ハウスと融合しながら新たな形を作り続けています。